Philosophy
校是「天下第一関」
本校に伝わる「天下第一関※」は、万里の長城最東端「山海関」の東門城楼(鎮東城楼)の軒に掲げられている扁額の拓本であると伝えられてきた。
昭和11年に中国視察の旅に加わった関門日日新聞主筆加藤七五郎氏が持ち帰られたものであるが、本校の前身「山口県立下関中学校」の第4代香川靜爾校長が、この語呂が創立(大正9年)された下関中学校(新築された校舎は現在の下関南高校で旭ヶ丘と呼んでいた)がこれから旭の如く進展向上せんとする本校の指針としてまさにうってつけであるとの想いから譲り受け、第一種課程生徒の工作実習として扁額にしたものである。「天下第一関の関中たれ」という願いとともに「中等教育は人生第一の難関、これを克服せよ」との意味も併せてこのことばを校是とし、爾来、下関西高となった今も精神的支えとして連綿と引き継がれている。
当初、扁額は校舎中央の二階建て講堂一階の雨天体操場入り口上に掲げられていたが、昭和25年9月下関地方を直撃したキジア台風により破損し、一部は消散してしまった。
その後、創立四十周年(昭和34年10月2日)の文化祭で本校の歴史をたどる企画がたちあがり、残された資料をもとに書道教師牧秀男先生(号は玉舟)が字の輪郭を模写し生徒たちが一斉に墨をのせて「天下第一関※」を再現した。展示後、これを扁額にして二階講堂内の出入り口上に掲げられたが、昭和40年代の大学紛争は一部高等学校にもおよび本校でも昭和41年に一部の生徒たちによって朱墨等で塗られ破損したために講堂の旧奉安殿内にしまわれた。
再び本校から「天下第一関※」が姿を消したのであるが、昭和45年に書道部で作成することになり牧先生が下関南高校に転勤されたため両校の書道部員が協力して前回と同じ手法で作成し、屏風として受け継がれることになった。この屏風は式典では常に演壇に置かれ厳粛さを増している。
その後、本校創立70周年(平成元年)記念事業の一環として同窓会で傷んだ扁額を修復することになった。表装は三輪雲輪軒(長門市)に決定したが、鑑定の結果紙の質もよくないうえに破損し朱墨もかけられていたので、そのままの修復は難しく、朱は洗い落とし文字だけを切り抜き上質の和紙に張り付けて復元された。扁額の表面は軽量化と安全面からアクリル板とし内部に湿気がこもらないように裏地には絹布を張って通気性を保たせている。台紙の周囲は金箔を押し枠は台湾桧に漆をかけたもので全体的に重厚感(およそ100キロ)のあるものに仕上がっている。
そもそも山海関は地理上、軍事上の要衝であることから明代には城楼が築かれ、第九代憲宗成化帝(在位1464年から87年)が城楼に「天下第一関※」の額を掲げよとの詔を下したことに始まる。書は進士で書家の蕭顕と伝えられ揮毫されるまでにはいくつかの逸話が残されている。
原本は楼門上の扁額の拓本とされてきたが、この拓本をとることは容易ではなく、これを写した石刻の「天下第一関※」が万里の長城築城にかかわる孟姜女の廟内にあり、この拓本が本校に伝えられ、さらに創立80周年記念で当地を訪れた旅行団が持ち帰ったものでもあると思われる。
このように中国の古い歴史に関わる資料をもととした校是は全国的にも珍しく、学生達はこれを胸に勉学に励み卒業生には多方面にわたり多くの逸材を輩出している。後輩には人生第一の難関を突破し諸先輩が築いてきた気迫、心意気を絶えることなく受け継ぎ己の志を果たして欲しいと切に願うものである。
平成29年3月
山口県立下関西高等学校 旭陵同窓会
※(関は旧字体)